白くはしる
私は目が悪いから、眼鏡を外したらぼやけた世界を歩くことになる。さいわい視力以外は目に問題はなく人やものにぶつかることは無い。そして、何よりも歩きなれたこの廊下、その上人気もないのだからぶつかり様がないのだ。
私のはやさに合わせて世界が流れるのを感じながら、やはりぼんやりとした扉の前で立ち止まる。扉には大きく十二の文字があり、今の私でも読み取ることが出来た。「いるかな?」小さくごちて、トントンと扉を叩く、すぐに入れとマユリの声がした。
薄暗さもあって部屋の中がどうなっているのかはほとんど分からない、けれども不自由も恐れも感じず前へと進む、途中、ひんやりと足裏で何かの感触を感じたけれどきっと大したものではないのだろう。大したものであったのなら劈くような大声で咎められたはずだ。
「また、壊したのかネ」
近寄るとマユリは平坦な声でそう言った。この場合主語は眼鏡と付いたのだろう。あきれたのか、苛立っているのかは、声を聞けば明らかだ。
彼は無関心だった。
「うん。ごめんね」
これまた平坦に私が言う。もちろんごめんねなどとは欠片も考えていない。
はっきりとせぬ彼の顔を捉えて微笑むのは、ある意味社交辞令的なこの会話に対してではなく、ぼんやり写る彼の顔が好きだったからだ。見えないけれど、その分彼の声色が良くわかる。表情なんかより、もっと分かりやすい。
待ちたまえヨと、小さく言って彼が新しい眼鏡を用意し始める。手を煩わせるくらいなら、いっそ見えなくなった方が楽かなとも思ったが、ぼやけた彼を見たいからその考えは否定する。ものの数分で完成した眼鏡を懐に仕舞い込み礼を言う、不機嫌そうにマユリは鼻を鳴らした。
「かけないのかネ?」
眼鏡をかける必要を感じない、掛けたところでマユリの事は見えないじゃないと心の中で反論した。しかし、指摘された以上かけない訳にもいかず、かけた矢先に見えるハッキリと化粧で塗り固めた顔が写った。黄金の瞳は左右ばらばらの方を向き、口元は閉じられた、何を考えているのか分からない表情。
ああやっぱり目など見えなくてもいいのかもしれないと、私は思った。
「ねえ、マユリ」
次眼鏡が壊れるのは、私が虚に殺される時かもしれない。
「死んだら実験材料に使ってね」
餌でも、義骸でもなんでもいい。
ふん。と、今度は不快さを含まない鼻の音、それが答えだった。
「瑞樹。
本当に死んだら考えてやってもいいヨ」
技術局へと行くのだろう、立ち上がり背を向けたマユリが言った。
ほうらと、私は眼鏡を外す。
ぼやける世界、遠ざかる白がとけて消えた。
(2017/04/17)